2013年06月06日

姉とともに

姉が亡くなって、一ヶ月半が経った、1999年11月28日、私はスタートラインに立っていた。

尼崎国際シティマラソン、ハーフマラソンのスタートが迫っていた。
空は快晴、爽やかな秋晴れだった。
ハーフマラソン、私にとっては2回目の挑戦だ。
前回2年前の挑戦時はろくな練習もせず、酒に酔った勢いで部下と出場を決めたのだった。
結果は散々たるものだった、当時体重は90キロをはるかに超えていたし、練習不足、前日の雨でぬかるんだ足元、折り返してからの強風、13キロを過ぎたあたりから、足にきて、攣る、走れない・・・・
ラスト3キロは文字通り地獄となった、足を引きずるようにゴールした、感動はなく、足の痛みだけが残った。記録は2時間20分、翌日歩くことができないほどダメージが残った、親指の爪は血豆となり、剥がれた・・・もう2度と走るものか・・・・そう思った。
あれから2年、今度は違う、私は一人で走るのではない、青空の上から姉がきっと応援してくれる。
姉とスポーツクラブへ行っている間、私はトレーナーや仲間と真夏から走りこんでいた。
時々姉も走りたいと言ってきたが、それだけはできなかった。
しっかり走りこんできたし、体重も82キロだった。あとは精神力だけだった。
私は姉の写真をランニングパンツにしのばせていた。
「応援してね!」
午前10時30分号砲、尼崎陸上競技場をとびだした。
5キロ、10キロ・・・・軽快に走ることができた。
そして折り返し、2年前失速したところ、今日は違う、走れる。。17キロ、さすがに足に効いてくる、足が上がらなくなってきた、また、だめなのか・・・・その時、空を見上げた・・・
「敦也、がんばらなあ・・・あと少しよ!」
そう、私は一人で走っているのではない、姉と一緒なんだ!もうひとがんばり、負けるものか、心の中で葛藤が続いた・・・
19キロ、20キロ・・・・・・・あと1キロ!
そして、感動のゴール!!姉とともに走った21.097キロ記録は1時間53分、自己記録を30分更新した。
いまだにこの時の記録は破ることができないし、もう破れなくなってしまった。
心臓病という病気を抱え込んでしまったから・・・・

続く

次回は最終回になります。

写真は翌年芦屋国際マラソン、ハーフの部参加のときのもの

tomoko18.jpg
posted by こやまっち at 21:25| Comment(2) | 日記 | 更新情報をチェックする

2013年06月04日

それぞれの思い

父へは母が連絡した。
声の出ない父は「・・・・・わかった」と独特のこえで答えた・・・・
実家で葬儀をすることになったので、父と妻、私の長男、次男は家の片付けに入っていた。
姉の帰宅の用意ができたのはもう22時30分だった。
静かに病室を出る、途中公衆電話で女性が楽しそうに電話をしていた。
でも姉の姿をみて、顔が引きつってしまった。
病院を出る場所は地下室だった、おそらく、普段は使うことのない専用の出口なのだろう。
担当医師、看護婦が丁寧に頭を下げて、お別れをした。
葬儀屋の寝台車で姉は実家へ戻った。

家は几帳面な父が着々と葬儀の準備にとりかかり、きれいに整理整頓されていた。
姉は座敷中央へ運ばれた。
長男にお別れをしなさいと、言うと彼は一目散に玄関を出て行った。
長男は一番姉に可愛がってもらった、だから変わり果てた姉の姿に彼には信じられないことだったと思う。
しばらくして帰ってきた長男の目は真っ赤だった・・・

葬儀屋を呼んで、あまりにてきぱきと事をすすめる父に母が切れた。
「病院に一度も来ないで、なんなのよ・・・・・・」母は泣いていた。
父はばつがわるそうに、ただ、母の横で立ったままだった。
母は一着の着物を持ってきて、葬儀屋に頼んだ。
「これを着せてやってください・・・」姉が成人式に着た振袖だった。
嫁ぐこともなく、晴れ姿を見せることのなかった姉への母の精一杯の気持ちだった。
通夜には姉の高校時代の友人男女8名が来てくれて、夜遅くまで姉の昔話で盛り上げてくれた。
姉にはこれだけの友人がいたんだ、なのにどうして心を閉ざしたのか・・・・
葬儀は母の意向もあり、導師3人、盛大で立派な葬式となった。
最後のお別れとなった、私も花を姉の胸元へ捧げる。

その時、父を見た、父の目に涙があった。

父が泣くのを見たのははじめてだった。

姉をいちばん可愛がっていたのはおそらく父だったかもしれない・・・・

父と娘、言葉ではお互い敵対していても、本心はお互いを求めていたと思う。

葬儀はとどこおりなく終了した。

PART3完

次回はPART4(最終章)です。

昭和37年12月母31歳、知子7歳、敦也4歳 @宝塚と記してあった。
もちろん私は記憶がない。


tomoko17.jpg
posted by こやまっち at 23:17| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2013年06月03日

命ある限り

午後から、母、兄夫婦、叔母がかけつけた。やっぱり父は来なかった・・・・・・
そのころ姉はもうほとんど話せない状態で、問いかけにうなずくのがやっとだった。
男性の医師が頻繁に姉の様子を診るようになってきた。
「お話したいことがあるので、詰所まできていただけますか」医師が言った。
私、母、兄の3人で詰所へ行った。
「ごらんのとおり、知子さんの様子が変わってきてるのは、家族の皆さんもお気づきですね、容態はきわめて悪い状況になってます、やはり、今夜が山だと思います、ただ、目を離した隙に逝ってしまわれるケースもありますので、注意して看護されてください。それと万一の場合の延命措置ですが、どうさせていただきましょうか」
「延命措置といいますと・・・・」
「まず気管切開です、これで本人の呼吸は楽になりますが・・・・・、あと心停止の際の心臓マッサージ、電気ショック、強心剤投与等です」
「それをすることによって、どのくらい延命できるのですか・・・」
「15分~30分です・・・・」母と顔を見合わせた・・・・
もう語らずとも意見は一致していた。
「もう娘の苦しむ姿はみたくありません、今まで散々悩んで苦労してきた娘なんです・・・・・やすらかに眠らせてやってください・・・・・」母は涙を流しながら医師に告げた。
「お母さんのお気持ちよくわかりました、最期まで精一杯治療させていただきます」

夕方になり、私の妻と子供3人、兄夫婦の子供二人も駆けつけた。
「ともちゃん、がんばってね」
何もわからない三男右京が声をかける、もう姉はうなずくこともできない状態だった。
午後7時になって、姉の胃から溜まってる水?を抜くことになった、腸閉塞の状態だった。
チューブを通して、容器一杯にどす黒い液が出た。
姉は意識もうろうとしていたが、少しは楽になったように見えた。
午後8時、妻が子供を連れて帰ることになった、姉はすでに昏睡状態に入っていた。
「お義姉さん、がんばってね、お母さんも、右京もみんな応援してるからね・・・」妻が泣きながら声をかけた、みんなもらい泣きしていた。

8時30分、姉は肩で息をするようになった。
医師がかけつけて様子を診る、もう手の施しようのない状態だった。
この時私はきわめて冷静に状況を見守っていた。
私の心の中では、午前中に姉と話したときにすでに別れは終わっていた。
「敦也・・・いままでありがとう」私にはこれがすべてだった。

午後9時が過ぎ、姉の呼吸が今にも止まりそうになってきた。
「そばへ寄ってあげてください」看護婦が言った。
「知子、知子!!・・・・・・」皆が声をかける、母は手を握り締めてただ祈っている・・・・次の瞬間だった、姉は閉じていた瞳を大きく開けて、一瞬天井をみつめた・・・・・・
医師が聴診器、脈拍、瞳孔をしらべる。
「午後9時8分、ご臨終です・・・・・」
「あんた、こんなにはよう逝って、どうすんのよ、親より早く逝ってどうするの・・・・・・」
母が泣き崩れた・・・・・42歳あまりに短すぎる生涯だった。
姉は体を清め、最後の化粧をする準備に入った。
いったん皆、外へでた。

私と姉は二人きりになった、私は姉の額にキスをした・・・・

「よくがんばったねえ、ほんとによくがんばった・・・・・・」

今までこらえてきた涙があふれて、止まらなかった・・・・

続く

tomoko16.jpg
posted by こやまっち at 22:24| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。